シネクドキ・ポスターの回路

映画や音楽を楽しみに生きています。

ひねくれ映画オタクが『呪術廻戦』を観た話(そしてミニ日記)

映画『呪術廻戦』を観に行った

先日、友人と一緒に『呪術廻戦』を観た。映画館でアニメ映画を観たのは、何年ぶりのことか分からないくらい久しぶりのことだった。

僕は映画が好きだ。でも、映画館に行っても観るのは「二人の灯台守が孤島で発狂していく話*1」とか「マフィアの殺し屋をやっていた男が年老いて家族に見放される話*2」とかばっかりで、大ヒット中のアニメ映画とはまるで縁のない映画ライフを送ってきた。実際あの『鬼滅の刃』だって、まったくスルーしてしまったのだ。今になって「観とけばよかったかも」と、わりかし後悔している。

しかし今回、観てきたという友人に「めちゃくちゃ面白かったよ」と激推しされた上、さらに「もう一回観たいから一緒に行かない?」と誘ってもらっちゃったものだから、観に行ってみた。

もちろん『呪術廻戦』は、原作もアニメも触れたことがなかった。というか『呪術廻戦』に限らず私、漫画の知識はほとんど皆無だったりする。さすがに基礎知識だけでも……と調べてみたら本作、原作の知識が無くても楽しめるという。友人も「全然知らなくても面白いと思うよ」と言う。

本当かしら……と正直、半信半疑の気持ちながら、もうひとり友人を誘って三人、連れ立って映画館に赴いた。

 

 

 

感想そして私なりに感じたこと

というわけで『呪術廻戦』を観た。正式タイトルは『劇場版 呪術廻戦0』だ。

結論から書くと、めちゃくちゃ面白かった。アクションもギャグもふんだんに盛り込みながら伏線をきっちり回収していく構成が見事で、シリーズの入り口としての側面もありながら、でも一本のエンタメ映画として綺麗に完結していた。

印象としては……作風こそ全然違うけど『スターウォーズ』のエピソード4とかに近いかもしれない。大きな物語の一部でありながら、始まり方も終わり方も丁寧で観やすかった。

事前の知識も必要なかった。もちろん原作を読んでおくに越したことはないと思うけど……どうなんだろう、逆に何も知らない状態で「一本の映画」として観るのも、それはそれでアリだと思う。むしろそういう人のほうが、ストーリーとしての全体的な面白さを新鮮に楽しめたりする、かもしれない。

以下、私なりに考えさせられたこと/感じたことを詳しく書いてみる。

 

感じたこと① 映画の映画たる所以とは

私が本格的に映画にハマったのは高校生の頃だった。とにかくひねくれた青年だったので、いわゆる「王道もの」は基本的に敬遠し、マニアックで頭のおかしい映画ばかり観ていた。

つまり、壮絶な金額で拵えられた大作ヒーロー映画とか、それこそ大ヒットを記録したアニメ映画なんてのには見向きもせず、というかむしろ、そういう平易なもの(そして、それを観ている人たち)を鼻で笑うような気持ちで、作家性を前面に押し出したような映画ばかり観ていた。

やがて私は「将来の夢」として、映画制作の現場を志すようになった。そして制作現場の実情を少しずつ知っていくうちに、一本の映画を作り上げるために携わっているスタッフの数、その信じられないスケールを目の当たりにして、愕然とした。そんなもの、スタッフロールを見りゃ一発で分かる話なのだが……たぶん当時の私には、あの一つ一つが「一人一人の名前」であることが分かっていなかったのだ。ただぼんやりと、何かの記号のような気持ちで眺めていた。

映画を作るという仕事は、ただひとりの強烈な作家性ではなく、壮大なチームワークによって成り立つものだ……ということを、私はようやく学んだ。

 

つまり高校時代の私は「映画」というものを、そのクレジットの頂点に記載される「監督」との、一対一の会話のようなものと解釈していた。ちょっとアーティスティックな映画を形容する時に「詩のような映画」とかいう表現が用いられることがあるが、まさにそういうイメージだ。詩人がひとり書いたポエムをひとりで読む、その延長線上のような気分で、映画も観ていた。

確かに、詩的なイメージを綴った抽象的な映画は決して少なくない。しかしその「詩」は、監督とか脚本家が一人で紡いだものではなく、何百人何千人というスタッフの「仕事」によって形作られたものなのだ。

私が映画に求めていた「一対一の対話」は、どちらかというと「文学」のフィールドで達成される表現なのだと、今は思う。

きっと私が好きな監督たちも、文学界の先人たちにインスパイアされて、それを映画業界に(たぶん確信犯的に)持ち込んだのだろう。例えるなら、ロックの世界にクラシック音楽の理論を持ち込んだプログレッシヴ・ロックのミュージシャンみたいなものだ。

私が「映画」として好きだったものは、厳密に言うと「映画」ではなかった。

 

ならば「映画」とは何か。

何百人何千人の尽力によって完成し、それがさらに、何千人何万人の人たちを楽しませる。それが映画というものの、本質的な存在意義だと思う。きっと映画は、本質的に「王道」でなければならないのだ。どんな逆境にも挫けず、真っ直ぐに生きる人が報われる世界を描かなければならない。社会への愛、人間への愛に溢れた世界を描かなければならない。

もちろん、アーティスティックな映画を否定するわけではない。そういう映画もあっていい。というか、私が個人的に「好き」で、ソフトを買って何度も繰り返し観たりするのは、やっぱりそっちの方だと思う。でも、そこで起こっているのは言ってしまえば「文学的」なコミュニケーションで、よっぽど映像センスのある作品でない限り、突き詰めれば「文学で良くない?」ということになる。

そう考えると、私は「映画」があまり好きではないのかもしれない。いつか文学の世界に没頭し、映画には見向きもしなくなる日が来るのかもしれない。どうなるか、今は分からない。

 

感じたこと② 根性だって必要なのだ

今の私は、映画とは「王道」であるべきなのだと思う。だけども、高校時代の私はいわゆる「王道」の映画を嫌っていた。いや、映画に限った話ではなかったかもしれない。巷に溢れた「これが正しいのだ」という我が物顔の価値観を察するたびに、抵抗しまくった。結果、ひとりで無意味に疲弊していった。相容れないものを受け流す能力も、時には必要である。

社会に馴染めなかった理由は、一言では言い切れないと思う。天邪鬼な性格、自意識過剰、高すぎる自尊心、ネガティブさ、臆病さ、現実逃避……いろんな要素が混ざり合って、私の人生は形作られていった。

結果、部活にも入らず家でひとり、俗に言う「カルトな映画」ばかり観る高校生活を過ごした。思い出も仲間も作ろうとせず、進路を真面目に考えることもなかった。今考えればちょっと怖いくらい、現実から遠ざかっていた。

それから時は流れ、今の私は、現実と向き合わざるを得ない歳になった。

少なくとも現実世界において、人生は脳内のドラマチックな空想ではなく、実際の行動と経験によって淡々と決まっていく。高校時代の私は、そんなことさえ理解できていなかった。

 

現実と向き合うと、分かることがある。生きていれば、時には「立ち向かう」必要がある場面もある、ということだ。人生には、塞ぎ込んでばかりでいるわけにはいかない時がある。ふざけんじゃねえ、と開き直り、玉砕覚悟で挑まなければならない場面だってあるのだ。

たぶん、多くの人は部活動を通して、そういうことを学ぶのではないかと思う。そして、一人では耐えきれない挑戦の場面で支えてくれた仲間と、絆を結ぶのではないか……想像だけれど。

とはいえ社会に出れば、たとえ一人きりでも耐えなければならない場面もある。それでも、仲間との経験はひとつの「心の支え」になるはずだ。それに気付いてから、例えばラインのプロフィールの背景画像を「部活の面々との集合写真」に設定している友人の気持ちが、ちょっとだけ理解できたような気がした。

現実と向き合って分かることは、もうひとつある。万事、頭で考えるほど悪い方にばかり転がるわけではない、ということだ。もちろん、上手くいかないことも山ほどあるが(むしろ、ほとんどのことが上手くはいかないのだが)全部が全部、悪いことばかりというわけでもない。

なんなら、上手くいかないことが悪いことだとも限らない。だって、苦労は裏切らないのだから……というのも、昔の私が嫌っていた「王道」の考え方のひとつだ。まったくの正論とは言い切れないが、間違った考え方ではないと思う。

 

結局「王道」だって必要なのだ。

 

僕は今回観た『呪術廻戦』が、映画として好きだったわけではない。でも楽しめたし、面白かった。主人公に共感もしたし、励まされた。

乙骨くん(主人公)は、根暗でネガティブで強迫観念気味なところのある、残念な青年である。しかし、あっという間に成長して、最終的には全キャラを凌ぐめちゃくちゃな活躍してしまう。まあ「めちゃくちゃポテンシャルあったんじゃん、お前」と思えなくもないが、それでも共感できたし、励まされた。

入学直後、禪院さん(同級生)に「被害者面すんな。目標も無くやっていける場所じゃねえぞ」と言われてしまうシーンは、こっちまで耳が痛かった。なんかそんなこと、私も高校の二者面談で言われた覚えがある。でも、それを素直に受け入れる乙骨くんはやはり偉い。さらにちゃんと目標を見つけて、あそこまで成長してしまうから凄い。そして仲間を守るために覚悟を決めるシーンは、とても格好よかった。

私は「素直」を、とても理性的な心の働きであると思う。落ち着いていて、冷静な人間にしか出来ない芸当だと思う。でも「素直」は必要なのだ。何事も、真正面から取り組むのがいちばん手っ取り早いのである。回り道ばかりしてきて、最近やっと気づいた。

ちなみに禪院さんは決して嫌な人ではなく、その振る舞いにもちゃんと背景があるので、やっぱりよく出来ていると思う。

 

 

観た後でいろいろ思い出したこと

これからは私も「王道」で、頑張らなければと思った。仲間も経験も拵える努力無くここまで来てしまったが、それでも頑張っていこうと思った。というか、頑張らなければならない。

そういえば、劇場に入る前に時間を潰そうと入った洋服屋さんで、槇原敬之の新曲が流れていた。いい感じだったので調べてみたら『宜候』という曲だった。この歌詞が良かった。

 

全て自分で決めた

それを忘れなければ

この先も後悔はしないだろう

 

そう、すべて自分で決めたのだ。

そういえば、B'zの『ねがい』にも似た歌詞がある。

 

誰のためでもない

自分で選んで歩いてきたこの迷路

 

まったくもって迷路だ。迷いっぱなしだ。でも自分で選んだのだ。

そして最後に、ニュー・オーダーの最新曲から、この歌詞。

 

There will come a day

When your fear and self-doubt fades away

Because you have achieved what you need

 

私の人生、そんなに悪いものでもないはず。それを続けていくためにも、立ち止まらず、立ち向かっていかなければ。

映画『呪術廻戦』を観て、そんなことを思ったのだった。

それにしてもバーナード・サムナー、60歳を過ぎてこんな歌詞が書けるのは本当にスゴいと思う。そういえば「もしかすると人間は、歳をとるほど青臭くなるのかもしれない」という文章をどこかで読んだ記憶がある。どうなんだろう、分からない。まだ若いから……。

 

 

映画の話題は以上です。ここから、パーソナルでちょっと湿っぽい話になります。他人様に読ませる話ではないとも思いましたが、面白く読んでくれる方が一人でもいてくれたら嬉しいので、載せます。記事を分割することも考えましたが、映画の内容にも十分に感化された「この日」の出来事だったので、繋げておくことにしました。

 

 

おまけ 〜 ミニ日記(六年越しの片想いが終わった話)

※以下は映画を観に行った日の夜、勢いのままに書いた文章に最低限の手直しを加えたものです。身勝手な内容ですが、恋破れた男のドキュメントみたいなものとして読んでいただけたら幸いです。

 

僕はこの映画を二人の友人と観に行った。この映画に誘ってくれた高校時代の友人と、予定が決まった後に僕から声をかけた、もうひとりの友人だ。

僕は、久しく会えていなかったO君という友人を誘った。彼は僕にとって、高校時代のクラスメートであり、また、初めて本気で想いを寄せた人だった。

 

僕は物心ついた頃から、同性に興味があった。O君に会うまでにも惹かれた人は何人かいたが、本気で、はっきりと好きになった人はO君がはじめてだった。

 

O君と出会ったのは高校一年生の時。同じクラスになったことがきっかけだった。

 

水泳部に属していたO君は、体が大きく、大人っぽい渋い顔立ちと合わせて、どこか貫禄のある雰囲気を醸していた。

しかし性格は、内向的で遠慮深く、いつも自信なさげに振る舞っていた。具体的な例を挙げれば、学内のソフトボール大会で見事打ち上げたツーベースヒットを褒められても「でも、あの時に守備でエラーしちゃってさ……」と落ち込んでいる……みたいな、そういう人だった。

O君の大きな身体、貫禄のある雰囲気は格好良かった。その渋い顔立ちにも惹かれた。そして内向的で自信が持てないその性格に、僕は共感した。仲良くなりたいと願ったし、仲良くなれそうな気がしていた。

でも同時に、妙な自意識のせいで親密になりきれない自分もいた。素直な恋心のままに動くということに抵抗を感じた。僕はいわゆる「ツンデレ」の部類なのかもしれない。どうも好きな人に対して、ちょっと素気なくなってしまうフシがある。あるいは同性に惹かれる人間として、O君を含む周囲の目を恐れていた気持ちもあったかもしれない。

もしかすると、普通に友達として出会っていた方が仲良くなっていた、かもしれない。僕たちは結局それほど親しくならないまま、一学年を終えた。

二年生になり、O君とは別のクラスになった。もう会えることはないだろうと思ったが、それでも僕はまだO君に惹かれていた。新しいクラスで親しくなった誰よりも、O君のことが気になっていた。

だけど、会いに行ったり遊びに誘ったりする勇気はなかった。どこかの廊下で擦れ違ったりしないものかなどと、都合のいい期待をしながら過ごしていた。

 

でも結局、そんな偶然が起きることはなく、僕は三年生になった。

そして高校最後の学年。何の因果か、僕はふたたびO君と同じクラスになった。

 

本当は飛び上がるほど嬉しかったが、なんとか気持ちを抑えた。本人に会っても「久しぶりだね」と言うだけで、気に留めないフリをした。完璧にツンデレだ。

といっても、僕たちは一年の時と同じく、付かず離れずの関係のままだった。でもO君は、機会があるごとに話しかけてくれた。もしかしたら、僕に対して似たもの同士の空気を感じ取ってくれていた……のかもしれない。僕から話しかけることもあったが、やはりO君から声をかけてくれることの方が多かった気がする。

相変わらず、O君は温厚な人だった。もう、その温厚さに賭けて「想いを打ち明けてしまおうか」と、そんな衝動に駆られることも時たまにあったが、なんとか理性で堪えた。告白なんかしたって困らせるだけだ、と自分に言い聞かせた。

告白しなかった、という選択は正しかったと思う。その上で……自分から話しかける機会さえ作ろうとしない人間が、想いを伝えられるわけがないよな、というふうに、今の僕は思ったりもする。

終始、関係は一年生の時と変わらないままだった。時はあっという間に流れて、僕らは卒業した。

 

卒業から一年ほど経ったある日。僕は気まぐれで観た映画『ムーンライト』に大感激し、その余韻と感傷に浸りきった勢いで、卒業以来連絡など取ったことのないO君に「久しぶり。元気?」などと見切り発車のラインを送りつけてしまった。

さすがにO君も「どうしたの?」と困惑していたが、優しい彼はメッセージのやり取りに付き合ってくれた。近況報告、思い出話、また会いたいけどしばらくはコロナで厳しそうだね、という締めの挨拶で、やりとりは終わった。

 

それから二年後。僕はラインで、O君を映画に誘った。メッセージの最後の履歴は二年前「また会いたいけど〜」の挨拶のままだった。

友人と『呪術廻戦』を観に行くことになり、二人きりというのも寂しいから「誰か共通の知り合いを誘おう」ということになったのだった。友人は三年生の時のクラスメイトだったから、O君は共通の友人だった。O君には、以前いきなりラインしてしまったことを一言謝りたい気持ちもあった。

O君は快諾してくれた。僕たちは三年ぶりに、顔を合わせることになった。

 

三年間、機会があるごとにO君のことを思い出していた。片時たりとも頭から離れない……とかいうわけではなかったが、決して忘れたりはしなかった。

六年間のうち、一度だけO君を含んだ何人かと一緒に、カラオケに行ったことがあった。僕はその時の様子を写真に撮った。もちろん、O君の写真も撮った。

本音を書くと、O君の写真が撮りたかったから、みんなの写真も撮った……という言い方が正しい。マイクを握っているO君の写真は、今でも僕のスマートフォンに保存されている。

 

会うことが決まってから、僕はソワソワして落ち着かなかった。誰かと会うのにこれほど気持ちがざわつく経験というのはたぶん、今まで一度も無かった。前日の夜は、まるで「遠足に行く子供か」とばかりに眠れなかった。こんな気分は、本当に久しぶりだった。

 

そして当日。僕は一番早く、映画館に着いていた。

 

そこへ、O君が現れた。

三年ぶりに会ったO君は……正直、あんまり格好良くなかった。

 

もちろん、本人が変わってしまったのではない。きっとO君自身は、ほとんど昔のままだったはずだ。僕の中で「思い出補正」がかかってしまっていたのだ。

僕は、O君本人の知らぬところで勝手に期待し、三年ぶりに顔を合わせて、勝手にがっかりしていた。もしO君が知ったら、いい迷惑だと思うだろう。

 

ただ、温厚で遠慮深い性格が相変わらずなのは、会ってすぐに分かった。

O君は、久しぶりの挨拶を終えるやいなや「誘ってくれてありがとう」と僕に言った。わざわざ感謝されるなんて恐縮だし、半分は下心で誘ってしまったようなものだったから、何と答えればいいか分からず、僕は「いやいや、そんな……」と、苦笑いしながら首を振った。

僕が「高校の人と会う機会なんて、なかなか無いよね」と相槌を打つと、O君は「そうだね、部活で一緒だった人くらいだよ」と、苦笑いを浮かべた。

 

もう一人と合流して、僕たちは一日を過ごした。いろんな場所に行ったが、僕は今度は、誰の写真も撮らなかった。カメラを起動することもなかった。

撮らないようにしたのではなく、撮ろうと思わなかったのだ。本当に友達としての気分で、僕はO君と過ごした。友達として喋り、尋ね、笑い合った。楽しかったが、その間にも僕が一方的に育ててきた魅力的なO君のイメージは、頭の中で静かに萎んでいった。

 

高校時代の僕は妄想していた。もし告白できたら、もし恋人になれたら……そんな上手くいかないとは分かっていたが、基本的には都合の良いストーリーばかりを並べて、楽観的に考えていた。

だけど、久しぶりにO君と会って、僕はどういうわけか「この人とは恋人になれない」と直感してしまっていた。今よりも親しい友達にはなれるかもしれない、でも、それ以上の関係には絶対になれない。当たり前のことなのだが、僕はこの時はじめて、それを悟った。

 

出会ってから六年が経っていた。

結局、告白することさえないまま、僕は失恋(?)してしまったのだった。

 

帰り道。O君ともう一人の友人は電車、僕は徒歩だったから、駅の前で二人と別れた。一人になって夕暮れの雑踏のなかを歩きながら「もう、しばらくは会えないかもしれない」と、漫然と思った。

もちろん、遊びや飲みに誘われたらいつでも応じるつもりではいる。付き合いを断ち切ってしまうようなつもりは毛頭ない。これからも友達でいたい。もっと仲良くなれたらいい。

でも、自分から誘って会うようなことは、しばらく無いんじゃないかな……と思った。我ながら、とても身勝手な話だと思う。でも、そうなっていくような気がした。少なくとも、今日みたいに胸躍らせて会うことは、たぶん二度と無い。

 

夕方の帰り道は、とても切ない気分だった。いつでも、連れと別れた後の孤独な時間は切ないものだが、この日ばかりは一層に切なかった。

恋する気持ちはどんな場合だろうと、ずっと続くわけじゃないということを学んだ。恋心というのは、基本的に「その時だけ」のものなのだ。実際、僕はもう二度とあんなふうにO君の写真を撮ることは出来ないのだから。

なにか、自分の人生の中で巨大な何かが変わってしまったような気がした。その変化は不可逆で、壊れるとか失われるとかに近いもののように思えた。

でも、そんなに珍しいことじゃないんだろう。こう文章にしてみると、ますますそう思える。皆、こういう切なさを味わって、歳をとっていくんだろう……。

 

僕の六年間に及んだ片想いは、こうして幕を下ろしたのだった。

(ミニ日記 おわり)

 

 

そして……この文章を書いた後、僕は桑田佳祐の『Soulコブラツイスト』を三回聴いて、三回号泣して、疲れ果てて眠ったのであった。

*1:ロバート・エガース監督の『ライトハウス』という映画。

*2:マーティン・スコセッシ監督の『アイリッシュマン』という映画。