シネクドキ・ポスターの回路

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キューブリックの遺作『アイズ・ワイド・シャット』はココがすごい。Part.1

皆さんは『アイズ・ワイド・シャット』という映画をご存知でしょうか。また、ご覧になったことがあるでしょうか。

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1999年に公開された、巨匠スタンリー・キューブリック監督(『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』『シャイニング』など)の遺作にあたる作品です。亡くなったのは、なんと本作の初号試写の5日後。その急逝には世界中から驚きと哀悼が寄せられ、そして本作の内容と相まった様々な憶測をも招きました。主演を務めたのは、当代随一の大物ハリウッドスター夫妻、トム・クルーズニコール・キッドマン。当時、実際の夫婦だった二人が「夫婦役」として共演したことでも、本作は大いに話題になりました。また、監督の徹底的なディレクションの影響か、予定されていた撮影スケジュールを大幅に超過し、400日を超える撮影期間を費やしたことから「世界最長の撮影期間を誇る映画」としてギネス世界記録に認定されたことでも有名だったりします。

……しかし。

いろいろ話題のあった割にはこの作品、キューブリック監督の作品の中でもどこか隅に追いやられているというか、冷遇されているというか、他の作品と比較すると「地味で退屈」というレッテルを貼られている感が否めないのです。

実際『博士の異常な愛情』以降の、映画史クラスの名作ばかりが並んだ監督のフィルモグラフィーにおいて、唯一『アイズ・ワイド・シャット』だけが、いまだに4Kレストア版ソフト未発売だったりします。過去、いろいろ発売されたキューブリックのDVD/Blu-rayのBOXセットでは外されまくっていた、同じく人気の微妙な(ファンは好きだと思うが)あの『バリーリンドン』でさえ、米国クライテリオンから美麗なレストア版が発売されたというのに。

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確かに『アイズ・ワイド・シャット』は、キューブリック監督の作品の中でも結構難解で、不可解な映画ではあります。その上『2001年宇宙の旅』のような明瞭なスペクタクルがあるわけでもありません。全体的に「地味」だという感想や、これ売れないよねという各ソフト会社の判断も、分からないわけではありません。

ですが私は、キューブリック監督の作品の中で、というか、これまでの人生で観たすべての映画の中で一番好きな作品がコレなのです。なので今回は、私なりに考えるこの映画の「スゴいところ」を、いくつか列挙して書いていきたいと思います。そして、この映画が「キューブリックの最高傑作のひとつ」としてきちんと認知され、一番好きな映画は何ですか?の質問に対して「アイズ・ワイド・シャットです!」と胸を張って答えられるような、そんな世の中が実現するための足掛かりになれば、と願っています。

 

というのも実は、以前映画好きの知り合いにこれを言ってみたところ「えー、あれポルノじゃん」と、涼しい顔でぶった斬られてしまったことがあったのです。それ以来「一番好きな映画」を聞かれた時は、なんとなく空気を読んで、二番目に好きな『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』と答えているのですが、いや……こんなのはやっぱりおかしい。

確かに本作は、そのテーマが「性への衝動」ですから、題材が題材……ではあります。しかし、ならば『ブルーベルベット』はどうだ、または『ピアノ・レッスン』はどうだ、あるいは『ベティ・ブルー/愛と激情の日々』だったらどうなんだ。あそこまで白い目で見られることは無いのではないだろうか。それは何故かと言えば、これらの作品群はすでに映画好きの中で「名作」として認定されているからなのです。題材のキワドさよりも「玄人好み」のイメージが勝るので、あーアレはいいよね、と言ってもらえるわけです。

 

世の中は今こそ『アイズ・ワイド・シャット』が映画史に残る名作であると認知するべきだと思います。そして、世に蔓延る「よく分からないし、地味」という不名誉なレッテルが払拭されるように。あまつさえ「ポルノじゃん」などと言い放つような奴は、仮面パーティーに引きずり込んで素っ裸にでもしてやろう、というわけです。意味が分からない人は、とりあえず本作を観てください。

それでは、いくつかの要素に分けて書いていきたいと思います。本作を観たことのない方は映画紹介文として、観たことのある方は「そんな感じだったなあ」とか思いながら読んでいただけると幸いです。上手く表現できるか分かりませんが、どうか本作の魅力が少しでも伝わりますように。できたら、どこかのソフト会社の方の目に留まって、4Kレストア版の発売が検討されますように。あわよくば時期も時期だから、本作が『ホーム・アローン』に並ぶクリスマス映画の定番になりますように。

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※BGMにどうぞ。

スゴさその①:謎に満ちた物語

まずは、ざっくりとあらすじを紹介します。

舞台はニューヨーク。医師であるビル(トム・クルーズ)とその妻アリス(ニコール・キッドマン)は、ある晩、ビルの患者であり友人のジーグラーシドニー・ポラック)のパーティーに招待される。会場において、あるきっかけから二人は別行動になり、それぞれでパーティーを楽しむことになるが、そこでビルは若い女性から、アリスは見知らぬ紳士から誘惑を受ける。

次の日の夜、ふたりはベッドの上で、互いに目撃していた相手の「誘惑」の現場について尋ね、探り合う。そのうち彼らは口論になり、その中でアリスは自身の性衝動について、ある告白をする。その内容に言葉を失ったビルのもとに、一本の電話が入る。それは、ある患者が亡くなったことを知らせるものだった。彼は、患者の家族のもとへ向かいながらも、アリスの、そして自身の「欲望」にまつわる妄想に取り憑かれてゆく……。

 

そんな感じの本作は、ざっくり分けて3つのパートで構成されています。ネタバレになるのかもしれませんが、展開の面白さとかは特にない映画なので(!)書いちゃいます。

ジーグラー邸でのパーティー

②アリスの告白 〜 ビルが過ごす一夜

③次の日の朝 〜 その夜

映画の主体を占めているのは②のパート。あらすじで紹介した通り、ビルはアリスの「告白」を聞いて愕然としたまま、真夜中の街へと出ていきます。そして向かった患者の家で、またもや思いがけない出来事に遭遇するのです。やがてその家を後にした彼は、自宅に帰る気にもなれず、何かに取り憑かれたようにニューヨークの街を徘徊しはじめます。そして最終的にはとんでもない場所に辿り着いてしまい、とんでもない事件に巻き込まれてしまう……というところが、この映画の山場です。

パート③ではその翌日、昨晩に遭遇した不可解な出来事の真相を探るために、白昼のなかビルが昨日訪れた場所をひとつずつ辿っていきます。そしてその日の夜、とある人物に呼び出されたビルは、その人物の口から「真相」を言い渡されます。そして、映画は結末を迎えます。

 

この映画、ジャンルでいえば「サスペンス」です。ある謎が仕掛けられ、最後にはそれに対する「答え」が提示されます。しかし、この映画の特異である点、他のサスペンス映画と一線を画しているところは、仕掛けられている謎が「あまりに多い」ということです。だから、最後に提示される「答え」だけでは明らかに不十分で、というかその「答え」さえ、本当か?と疑いたくなってしまう、そういう構造になっているのです。言うなれば、とても不安定で、とても不可解な物語なのです。これは、この映画が原作としている小説作品に由来した作風であると思われます。

本作は、オーストリアの作家であるアルトゥル・シュニッツラーが1926年に発表した『夢小説』という中編を原作としています。全体的なストーリーの流れも、舞台を現代のニューヨークに置き換えただけで、ほとんどそのまま流用されています。家庭を持つ医師の男が、ある夜に患者の家へと呼び出され、そのまま真夜中の街を徘徊する物語。ちなみに原作の舞台はウィーンの街でした。

ここで不思議なのは、どうしてタイトルが『夢小説』なのか、ということ。この小説には、夢を見ているという描写も、夢から覚めるという描写も存在せず、ただ淡々と男の徘徊が描かれているばかりです。そんな小説がなぜ『夢小説』と題されているのか。

このタイトルについて、一般的には、小説全体が「ひとつの夢」として捉えられている、あるいは「ひとつの夢」に例えられている、と考えられています。

この小説の著者であるシュニッツラーは、同じくオーストリア出身で同時代に活躍した『夢判断』などの著作で知られる心理学者、ジークムント・フロイトからの影響を受けていたと言われています。後年の医学や哲学、芸術に多大な影響を与えたフロイトは「精神分析学」の創始者として知られています。精神医学が確立していった時代、人々が最も「夢」に関心を寄せていた時代に記された小説を、そのミステリアスな魅力と普遍的な奥深さをそのままに、現代劇として完璧に再構築したのが『アイズ・ワイド・シャット』なのです。

 

生前のキューブリック監督が手がけた本作の予告編には、劇中でビルが言う「It's only a dream(ただの夢だ)」という台詞が挿入されています。あまりに曖昧で、あまりに謎が多く、サスペンスなのに答えがはっきりしないまま映画が終わってしまうその理由は、この作品が(密かに?)掲げているテーマのひとつが「」であるから、と言えます。もっと言えば、この映画そのものが「ひとつの夢」であるかのように仕上げられており、真相は何だったのか?どころか、そもそも何が起こったのか?さえ不明瞭なまま、物語は幕を下ろすのです。

(だからこそ、トム・クルーズニコール・キッドマンの起用がハマっているのだと思います。その話題は後半で

象徴的なイメージとサスペンスの骨組み、その絶妙な塩梅で成り立っている本作は、観る人を物語の「謎」へと引き込み、また同時に、観客それぞれが現実で抱える「謎」を想起させ、思考を促します。サスペンスなのにカタルシスに欠ける、というのも見方を変えれば、だからこそ面白い、とも言えるのではないでしょうか。

ジェットコースターの「怖さ」のピークが、真っ逆さまに落ちていくその最中よりも、ゆっくりレールを昇っていく長い時間にあるような感じで、サスペンスの中でいちばん高揚感を感じさせるのは「謎」が提示される瞬間、だと思います。そして、この高揚感は「解決」とはあまり関係のないものである、とも思います。それで言うと、例えば風呂敷を広げるだけ広げて一切回収しないまま終わることで有名な『ツイン・ピークス』(特に2017年の最新シリーズ)が好きな方などは、本作かなり刺さるのではないでしょうか。

 

また『タクシードライバー』や『ゾディアック』などの「ひとりの人間が、次第に周囲から隔絶し、孤立していく」話が大好きな私にとって、この映画で描かれる「自分だけが何も知らないのではないのか」という疎外感、孤独感、疑心暗鬼は、本当に沁みるものがあります。これも結構、今の時代において共感できる人は少なくないのでは、と思っています。

何気なく過ごしている日常の中で、しかし実はずっと「もしかして、自分だけが」という不安に脅かされていて、一体どうやって動いているのかイマイチわからない社会の、その「裏側」で、なにか恐ろしいことが起こっているのではないか、その「恐ろしいなにか」を自分は見たことがあるのではないか、といった疑心暗鬼の気持ち。しかし、それもまたすべて、自分の潜在意識が生んだ「夢」なのかもしれない。何も信じられるものがないとなれば、いっそ何もかもが「夢」なのかもしれない。そうした終わりのない自己問答に(自分から?)迷い込み、抜け出せなくなるビルの姿に、私はとても共感します。

ビルが日常から逸脱し「裏側」の世界へと迷い込んでいくきっかけとなる「アリスの告白」のシーンが、私のいちばん好きなシーンです。ニコール・キッドマンの迫真の芝居とともにムードが一気に張り詰め、映画の雰囲気がガラリと豹変します。ある意味、あのシーンから映画が始まる、と言っても過言ではないと思います。

 

ちなみに。散々「曖昧」とか「答えがない」とか書いてきたのですが、噂によるとこの映画には「完全な答え」が一応、存在しているらしいです。私は知りません。はい、私はこの映画が大好きで、こうして推薦のブログを書いたりもしていますが、考察がどうとかはまったく分かりません。正直、結局どういう物語なのかさえ、よく分かっていません。気になる方は「アイズ・ワイド・シャット 考察」で検索すれば、いろいろ出てくると思います。

私が「答え」を見ないようにしている理由は、この映画の謎めいた雰囲気が好きすぎて、そのファンタジーを崩したくなくなってしまったから、です。要するに「思い入れが強すぎて、作品に踏み込むことが出来なくなってしまった」という、まさに本末転倒といった状況です……。

もしかしたら、あと10年くらい経てば、私も「答え」を受け入れられるようになっている、かもしれません。でも、何が何だか分からないまま好きで観ているというのも、結構貴重なことだと思ったりもします。

 

では、ここでいったん区切ります。続きは後編へ。